あーでもなければ、こーでもない!(ここがメインになるのか??)

読書、映画、プログラミング、野球などなど。おもいがままに書いてくぞ!

日記とは自分の中にある

ここ1年くらい「ホンネの日記」を書いている。

 

ネットでブログとして個人的な日記のようなものを公開するとなると、やっぱり多少はかっこつけたり、話盛ったりしてる。いや全くなかったことを書いてはいないけど、ちょっと話面白くしちゃうことが、ないとはいえない。面白くする、っていうと嘘ついてるみたいだけど、仕事で本気で怒ってることをストレートに書いて、ドス黒い心の内をお見せするのもなんだし、そこを笑えるように反転した視点で書いたりとかね。そうすることで、自分自身の考え方を柔らかくできるし、気づきもある。それはそれでアリだと思ってるのだけど。

 

でもそうしてるうちに、どれだけ書いてもホントの自分が書けてないんじゃないか?とか考え出しちゃった。ブログとしてネットに上げるから面白いものを書こう、となるわけで、じゃあ誰にも見せないことを前提にすればいいんじゃないかと、PCのテキストファイルとして日記を書き始めた。ここには自分のホンネとホントにあったことだけを1年くらい書くのを続けている。

 

そうして書いたモノを読み直したんだけど・・・これが自分かあ?という気持ち。うれしいことがあったときは恥ずかしくなるほど喜んでるし、逆に怒ったときの心の病み具合が半端ない。ネットのブログと違って、誰もみる人がいないってことは歯止めがきかないってことである。だからどんどん浮いたり沈んだりしたる。「仕事辞めたい」ってずっと書いてるし、笑えない。

 

これが自分なんだろうけど、そうは認めたくない。いや少なくともそう認めたくない。こうしたいなーと考えたりする。

ハタと気がついたのだけど、これが日記というものかもしれない。かっこつけたブログでも、病に落ちたような誰にもみせないテキストでも、ホントの自分を100%さらけ出すことなんてできない。いや時がたてば「これは違う。自分はこんなやつじゃない」と言いたくなるものなのだ。だから日記とはあの頃の自分への視点であって、読み返すことによって起こる自分の心の反応によって、役割が完成する。というのがあるべき姿じゃないか。そこに真実が全て書いてあるかなんてことは問題じゃなく、あのとき、自分はこんなことを書かずにはいられなかったのかと思い至ること。ならば今これからは、と考えるために記すのかもしれない。

 

よく著名人の日記とかで心情を考察するとかあるけれど、あれも第三者がとやかくいうのどうなんだろうねえ。日記に書いてあることを真に受けすぎない方がいいと思うけど。やっぱり日記って、書いた人本人のためだけにあるのだ。

 

映画にもいろいろあるep1「猿の惑星から刻まれた"心の爪痕"

見出し画像トラウマ映画である

自分が子供の頃に、心をえぐられたトラウマ級の映画を3本上げるとするなれば……いや2本でいい。ふたつで充分ですよ。「猿の惑星」と「八つ墓村」しかない。だってこの2本が飛び抜けてるのだから。八つ墓村はまたの機会として、今回は自分の心に爪痕を残した映画体験「猿の惑星」を深掘り。ちなみに初めて見たのは、はっきりしないが小学校4年生ぐらいのときだったと思う。サンテレビで旧シリーズを、春休みかなにかで五夜連続でやってたのを全部みた。怖くて、泣きそうで、でも目が離せなくて、食い入るように見たのを憶えている。

恐怖体験だった

みなさんよくご存じのタイトルだと思うので、シリーズの概要や映画の内容についてはサラリとだけ。映画の元祖の旧シリーズは68年の1作目を皮切りに、5作がつくられた。まずは1作目の映画「猿の惑星(1968)」。宇宙船の船長テイラー(チャールトン・ヘストン)がコールドスリープから目覚めると、ある惑星に不時着することになる。そこには人間が動物のように扱われ、猿が人間のように支配する社会があった。

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猿の惑星(1968)振り向いて、猿が初めて映るときの衝撃!


まず目が釘付けになったのは、演じる俳優の猿のメイキャップである。目玉はギョロギョロ動くし、瞬きするし、しゃべると口元が動く。あまりに表情が豊かなので

「なにこれ・・・もしかしてホンモノ?(´д`)」

本気でそう思った。当時は小学四年生くらいだから、さすがにテレビの中のことが現実ではないのはわかってた。でも子供の頃によくみていたヒーローモノの特撮っていうと、猿の姿の着ぐるみがしゃべってもアフレコで声が当ててあるだけで、当然表情は変わらない。悪い意味でなく、そのチープさがフィクションの面白を際立たせ、現実との区切り明確にしてテレビのこちら側では安心してみれていたのだと思う。しかし「猿の惑星」の特殊メーキャップはあまりに自然で、開いた口が塞がらないほどビックリした。これもしかしてホンモノ・・?そんなわけないと思いつつ、子供の頃の自分の中で出来上がりつつあった、現実とフィクションの境界が壊れたような異様さがあった。2025年の今の子供はこんなことでビックリしないのか。でも今の子供もよくできたCGで同じような体験してたりするような気もするけれど。

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人間が動物扱いされて檻に入れられ、それを言葉を話す猿がみてるってのがとにかく怖かった


それよりも怖かったのが、この世界の人間の姿だ、汚いボロ衣をまとい、言葉を話せずうなり声をあげ、食べ物は手づかみでむさぼるように食べる。その動物のような姿に戦慄。猿がつくった農作物を漁りにきた人間たちを、馬に乗った猿のハンターたちが追いかけ回して銃でガンガン撃つ。バッタバッタ倒れる人間たちという地獄絵図。捕まった人間は獲物として脚から逆さづりに吊され、猿たちは獲物の人間を山のように積み上げ、その上に足をのせてニッコリと記念写真。他の人間達は檻に閉じ込められて人体(動物?)実験の道具にされるのだという・・・

「うわああああ(´д`)」

他の生物に支配される。支配されるだけならまだしも、動物として扱われる。とって食われる感覚というのは、幽霊をみたり、ケンカで殴られたりするのとは、レベルが違う本能が震える怖さだった。この頃「ドラえもん」とか読み始めて、「人間と動物が入れ替わった世界とか面白いな」とか考えてみるSF的思考みたいなもんに興味を持ちだしてた。けれど実際はそんな無邪気な空想ではなく、本当にそういった状況になったときのおぞましさを実感。「ドラえもん」は実験的思考の楽しさというSFの楽しいプラス側を教えてくれたけど、反対に猿の惑星はマイナス側、楽しいだけではないリアルで異常な情景が、恐怖と共に脳に焼きついた。小学生の白紙状態の感性には、現実への視点がぐらつく体験だった。楽しさとおぞましさ、両方の感覚が、その後の自分の考え方やら、いろんなことの血肉となっているのだけど。

もうひとつは核戦争の恐怖。70年代にオカルトブームは一区切りしたたとはいえ、80年代キッズもノストラダムスの大予言には興味津々だった。この時代、世界が終わる一番現実的な恐怖とは大国の核戦争。その恐怖をまざまざとみせつけたのも、このシリーズだ。

まずなんで猿が支配して人間が退化してるのかっていうと、核戦争後の世界に猿が進化し、人間の文明が滅んでいたっていう理由に驚愕。1作目の映画史に残るラストシーン、壮絶な破壊を思わせる上半身だけの自由な女神像からは、今の世の中が壊滅したという絶望感で胸が苦しくなった。

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続・猿の惑星(1970)爆弾を狂信する人間たちの姿。見た目だけじゃなくて、その心の内が怖い


続くシリーズ2作目の「続・猿の惑星(1970)」の新人類もトラウマ。核戦争後に、動物化していない人間の生き残りがミュータントとなって生きのこっていた。彼らは修道服に身を包み、聖堂のコバルト爆弾をご本尊に、賛美歌を合唱する。爆弾を神とする信仰を持つ狂信者となっていたのだ。1作目の動物化した人間とは別の怖さ。終末の後に頭がイカれてしまった人達っていうのが感性に特大インパクトだった。服の下の人間の姿は実は…というのもヒエッとなる。しかも最後は猿と人間が争って地球がぶっ壊れるというトンデモエンド。人間側は爆弾を信じて破滅することしか考えてないし、猿が生きのこった人類のことをよく理解してないまま人間の住む土地へ攻め込んでるし、争いが起こってるんだけど、お互い噛み合ってない。なんだこの気色悪さは。実際の戦争もこんなもんかもしれないな・・当時の自分に、ほんと核戦争後の世界なんてみたくねーよ・・・という感情が、大きな爪痕になって残った。

やっぱり怪奇映画なんよ

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PLANET OF THE APES/猿の惑星(2001)映像は進化してるけど違うんだよー


少し時代が飛ぶけど、2001年にリメイク版(リ・イマジネーションとかいうコピーがついてた)「PLANET OF THE APES/猿の惑星(2001)」が公開された。旧シリーズのファンとしてはめっちゃ期待して観にいったんだけど、観た後はガックリ。これは違うなーという感覚しかなかった。

技術の進化による新たな表現がピンとこなかった。猿が壁を這い上がり、高くジャンプし、怪力で人間達を放り投げる。動物のようだった人間が言葉がしゃべれるようになったというのもあるんだけど、やはり猿を圧倒的な肉体を持ってる存在として描いたことに違和感。全く怖さがなくなった。

猿が高い運動能力を持ったりしてたら、そりゃ支配されるのやむなしと納得しちゃうのよ。暴力による支配という関係だけにしかみえない。旧シリーズのどこが怖かったかというと、猿がいつの間にかしれっと人間と立場が入れ替わっているところだ。そして彼らは怪力など特別な能力を持ってるわけではなく、振る舞いが人間と変わらないということ。つまり支配される理由が見当たらない。もしかして、今自分たちが生きているこの世界は偶然のような夢にすぎないのではないか。そう考えはじめてしまう悪夢のような感覚が怖いのだ。1作目の主人公テイラーは宇宙船のコールドスリープから目覚めるけど、現実でもある朝起きたら、猿と人間が入れ替わってたらどうしようという恐怖。当時、自分は寝るの怖くなったもんね。この怪奇性こそ自分のトラウマの正体だろう。

一部で旧作をみて「猿たちが英語しゃべってるのおかしいやん」とかいって笑う人いるけど、そこが怖いんじゃないか。猿がいつのまにか人間達の言葉を当然のようにしゃべってる。その不気味さって自分は背筋が凍る思いがする。

猿の惑星はこの後リブートされる。近年のリブート作品はSFとして面白いし優れてる。でもあえていえばSFという枠だけに収まっている印象。旧シリーズの怪奇性がなくなってしまったのが残念。2作目のミュータント新人類のような狂気も消えた。理屈を考えるのがSFとしての面白さなんだけど、理屈を越えた、言葉で言い表すことでは届かない世界があることを知れたのも、旧シリーズが自分につけた爪痕だった。

考えるな。感じろ

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新・猿の惑星(1971)友好的だったのになんでこうなったの


2作目の地球破壊の影響でタイムスリップし、言葉をしゃべれる猿の博士夫妻が現代(1970年代)にやってくるのが3作目の「新・猿の惑星(1971)」。猿に囲まれた前二作とは逆に、言葉を話す猿が現代の人間達の注目を集める。猿とはちがって現代の叡智ある人間なら大丈夫……とはならない。前半、人間は彼らはを歓迎するが、知性のある猿夫妻を危険視するようになり、しっかり間違えてしまう。いやこれは必然なのかというバッドエンドも、物語といえばハッピーエンドしかしらない小学生の自分にはショックだった。

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猿の惑星・征服(1972)なんでこうなっちゃうのか人間は


4作目の「猿の惑星・征服(1972)」も忘れられない。近未来、猿を訓練することで労働力として使えることに気がついた人間たちは、猿を奴隷として使うようになる。訓練施設では、猿を人間が殴る蹴る、火炎放射までして、訓練という名目の暴力が平然と行われていた。奴隷として社会に出た後も、彼らは大事に扱われることもなく、人間達から虐げられるのだ。知能を持ったリーダーの元、結束した猿たちは人間たちに反乱を起こす。

この映画の批評で多いのは、「猿と人間の関係性は黒人奴隷問題のメタファー」というもの。それは間違ってないんだけど、口悪く言うと、それってインテリが知識で映画みてるな、って思うところもある。世の中にある問題のメタファーとして当てはめる。大人になるほど映画以外の社会に今あるところから引っ張ってきて理解をする。でも小学生のときの自分が、この映画を観たときの感想は

「人間がひどいことをしたから、神様から罰があたったんだ」

というもの。これ大人になった今でも気に入ってる。いやー小さい頃の自分っていい感性してたんだなあ。大人になった自分が初めてこの映画を観たなら、やっぱり奴隷問題がうんぬんという知識で解釈する見方をしてしまうだろう。知識があるから、たくさんの言葉を知ってるから、作品とのつながりが深くなるとは限らない。小さいときの何もない自分だったからこそ、心にダイレクトに傷がつき、今ではできない体験をしたと思ってる。あの頃の感受性で巧みなく映画をみたいなー。それはいま望んでも無理なことかもしれないが。

何かは必ず刻まれる
「怪奇性がなくなった」とは書いたけれど、いまさら60年代、70年代のナンデモありの時代に戻れるわけでもない。でもお行儀よく、トラウマを植え付けるような表現はやめましょうといっても、人間生きていればどこかで何かに出会ってしまうものだと思う。だから、もう出会うものとして心の準備をしておくほうがいいのではないか。ショックを受けるようなことはあっても、それは感受性が生きてるというこ。ポジティブに考えたほうがいい。そして「征服」のところでも書いたけど、その感受性は大人になっていくら望んでもかえってこないモノなので、小さい子はいろんな作品をみて、心に何らかの形を残すような作品に出会って欲しいと思う。心に大きな爪痕を残した猿の惑星シリーズだけど、自分が生涯好きなSFの面白さを教えてくれたのも確かだ。ショックを受けたけど、警察につかまるほど悪い大人になってるわけでもないし、まーええんでないかい?

※書くの忘れたけど、もちろん5作目「最後の猿の惑星(1973)」も観てる。この作品は旧シリーズ唯一の希望的ラストのせいか、他の作品に比べて、熱量が一段落ちちゃってる。ハッピーエンドの作品が心に残ってないとか皮肉なもんである。

「ずうのめ人形」を読んでみた!おっさんの読書感想文No.2

読書感想文のNo2?ナンバリングする意味がないような……とりあえず、今回の本の感想は「ずうのめ人形」。

映画化希望を撤回


「来る」(2018)という映画が好きだ。普通の男の新婚生活に隠れる歪んだ感情。その闇が民間伝承につながり、やがては霊能力者大集結バトルにつながる展開。最強の霊能力者を演じた松たか子の存在感よ。映画にはまって原作の小説も読んでこちらもお気に入り。映画は興行的にはいまひとつだったそうだけど、そんなの関係ねえ。早く続編の映画化を、という気持ちを待ってられなくて、原作の続編小説を読んだ。その気持ちとしては、うん、これは映画化しなくていいかも。続編「ずうのめ人形」は映像よりも、文章を追いかける面白さにあふれた作品だったからだ。

リング以後の世界

目がくりぬかれるという異様な不審死をしたライターの湯水。オカルト雑誌編集部の藤間は、湯水の死体のそばにおかれていた原稿を預かることになる。読むと、藤間は遠くに日本人形がみえるようになる。時間がたつにつれて近づいてくる日本人形。どうやら人形との距離が生の残り時間らしい。死から逃れるためには、原稿の謎を解くしかない。

多くの人が指摘しているように、基本の構成は「リング」を想起する。あえて「リング」のあらすじをなぞることで、近年の都市伝説に対する考察も物語のポイントとなっていく。

これは自分の感覚なんだけど、都市伝説って「リング」という作品の前と後という分け方ができるのではないか。もちろん「リング」以前にも自分が子供の頃に体験した「口裂け女」や、もっと古く海外でも「オルレアンの噂」といった有名なケースはいくらでもある。でも特に映画版が発表された前後で都市伝説は変化したという印象がある。映画版の公開は97年。インターネットを世の人が使い出した頃だ。都市伝説という「生き物」は、ネットという絶好の住処をみつけたことによって「怪物」として生まれ変わったのではないか。物語の中でもある人物が指摘する。

「怖い話が伝わり広がること、それ自体なんだ。それが恐怖を引き起こす」

「リング」という物語でもキーとなる「増殖する恐怖」がネットによって加速されたこと。そしてネットという虚構と現実があいまいな空間があることによって、都市伝説が現実のこちらまで侵食してくる感覚に襲われること。「リング」というマイルストーンがネットの登場とリンクし、「都市伝説」は化け物となったのだ……という感覚がある。

読むと壮絶な死を迎えるという原稿に隠された謎。巻き込まれた編集者・藤間。謎の解明に協力するのは「来る」にも登場したオカルトライターの野崎と、霊能力を持つ比嘉真琴のコンビ。野崎の推理と論理にはしびれるぅ!「来る」で演じていたのは岡田准一だったので、もちろんイメージしながら読んでた。ちなみに比嘉真琴も小松菜奈で読んたけどね。

カメラワークの罠

物語とは何か?あえて言い切ると「カメラワーク」である。映画で、好きだと告白して、はにかんだ男子の表情をアップにするのか、驚いて少し嫌がってる女の子の顔を追いかけるのかで、観てる人が受け取る感情は違ってくる。マンガはコマ割りによって、ゲームは操作するキャラクターの視点で物語を誘導する。

何を映し、どれを繋ぎ、どの順番でみせるのか。そして何をみせないのか。物語とは視点をどこに持っていかせるかの、カメラワークだといってもいいだろう。

藤間が受け取る原稿に書かれた内容は、里穂という中学生の少女の生活が書かれた私小説だ。親は離婚し、オカルトが好きだということを学校で笑われてどこにも居場所がない。原稿の内容を知るうちに「かわいそう」という感情に引き込まれることだろう。しかしこの感情に呑み込まれることが、実に巧みなミスリードとなっている。物語の「カメラワーク」は映像の話だけでなく、小説にもあてはまることを読み手は忘れがちだ。何を語り、何を語らないのか、という視点の誘導、書き手の作為が文章にもある。

映像の場合、作り手には作為があって感情に流されないようにしよう、と思っていても、文章になると無防備に納得してしまうことってないだろうか。世の中、文書主義みたいなところがあって、議事録残ってればそれが真実でしょ、ということがあるけど、本当にそうなのか。映像だと疑うことが、文章では思考停止してしまう。映像は感性、文章は理性だなんてとんでもない。文章は読み手の現実を書き換える力を持っているのだ。そんな文章のミスリードの魔力がこの小説にはある。だから映像化しなくてもいい。これが文章で読む物語の面白さなのだ。

自分も、まんまとだまされた。最後のほうに驚く視点の転換もある。それはトリックによるドンデン返しじゃなくて、自分が勝手に思い込んでいた「現実」が崩れていく感覚なのだ。これ何か読み落としたのか??と思って、最後のほうまで読んでたのに、思わず最初から読み直しちゃったよ。でも矛盾点はなく、巧みに裏をかかれていた。いやこれだけよく書かれた小説で穴があるわけないよねえ。やられた。

出会うことはなかったのか

キーとなる「原稿」については本作を読んでいただくとして、それでも書き手の里穂のことを思うと切なくなってくる。彼女は心許せる人も少なく、好きなオカルトという趣味も、学校では笑われてしまう。

多くの人は10代のとき、彼女と同じような体験をする。自分が好きなことが他人からみればとても変なことで、それを捨てなければ「大人になれないよ」という同調圧力を受ける。好きなことから距離を取る、ずっと好きでいる、どちらを選択するにしても、スッとその壁を超えられた人はいい。でもこれ、自分もそうだったのだけど、好きなことを続けることで、このままだと周りから浮いてしまうという恐怖、ダメな人間じゃないのかという悩み。どうしようという葛藤は、まだ何も自信がない若い時代には本当に苦しい。ましてや里穂は両親も離婚し、周りは自分をかえりみず、オカルトという趣味が唯一の拠り所となっていたことを考えると、心がキュンとなる。そりゃ、あんな怨念くらいうみだすわ。そして大切なものを捨てたからには…という彼女の気持ちもすごくよくわかる。

里穂という少女の孤独に出会いはなかったのか。現実で自分の好きな趣味を全力で語りあうことが出来る人に出会うことはすごく難しい。しかしインターネットという世界はそんな人同士をつなぐ力がある。自分の同じような悩みを乗り越えたロールモデルとなる人に話をきくこともあるだろう。

インターネットはリング以降、都市伝説を化け物に変化させ、様々な災厄をもたらした。そんなパンドラの箱に最後に残ったのは、人と人をつなぐという希望ではなかったか。

もし里穂の現実がつらくてもネットで何かの出会いがあれば……
ラストのあの不幸な対峙もなかったのではないか。もともと同じ居場所なんだよあの二人は。ほんの少しの運命のズレに泣いちゃったのよね。

……はい、今回も作品の内容と大きく外れた自分の意見語りの文章書きましたよー。いいんだよ読書「感想」文なんだからな!

とにかくオススメのサスペンスミステリーホラー小説。ドキドキで怖くてうならされる小説です。オススメ。このブログ読んでも内容さっぱりわからんでしょうが、まあ読めばわかります。じゃ次回もこんな調子で!

おっさんの読書感想文No.1「ぼくらの昭和オカルト大百科」を読んでみた!

台風が過ぎた後


「台風が過ぎた後なんじゃないか?」80年代にオカルトに触れていた小学生のときの自分はそう思っていた。この本で取り上げられているのは、70年代の子供たちだけど、80年代の子どもたちもオカルトに興味津々だった。自分も雑誌のネッシーの記事にワクワクしたし、テレビの怪奇特集「あなたの知らない世界」は食い入るように見てたし、クラスの女子たちは、みんなコックリさんをやっていた。でもなんとなく、自分たちが触れているモノは、いったん大ブームが起きて過ぎ去った後なんだろうな、という感覚があったのだ。

ユリ・ゲラー」「ノストラダムス」「日本沈没」は80年代の子どもたちの間でも人気があった。でも、ああそれは少し前からあったんだ、と年上のお兄さん、大人たちが教えてくれた。床屋に置いてあった古い漫画の単行本には、少し前の熱狂が話で描かれていた。一大ブームの後の繰り返し。80年代の子どもたちにとって、オカルトブームは自分たちと同時に生まれたものではなくて、お兄ちゃんのお下がりを着させられているような感覚だったのではないだろうか。

本書は80年代の少し前、まさに「台風」のようなブームの真っ只中の70年代のオカルトブームについて、著者のサブカルチャー研究家・初見健一さんによる考察だ。

科学による「明るい未来」は、公害問題などをキッカケに暗い終末思想へと反転していく。不安を吸収して創作されたポップカルチャーが人の心をさらに不安にさせるという循環。当時圧倒的な影響をもっていたテレビが取り上げることで、70年代の日本がオカルトというカルチャーに飲み込まれていく様子が解説されていく。「ノストラダムス」「未確認生物」「UFO」「超能力」「心霊」といったジャンルごとに、その歴史と70年代に入ってからの様子が書かれているのも、流れを知ることができて興味をひく。本書は世の中の現象を俯瞰した視点も面白いのだけど、なんといっても読みどころは70年代に少年時代を過ごされた、初見健一さんの子どもとしての視点だ。

子どもの視点


初見健一さんによって描写される70年代の子どもたちは、目一杯オカルトを楽しんでる。テレビのユリ・ゲラーの番組をみては、超能力を身につけるトレーニング、心霊写真の本をみては教室のみんなが大騒ぎする。その一方でツチノコを探すんだけど、それは釣りに飽きたときの単なる暇つぶし。将来のことをきかれると、ノストラダムスの予言を持ち出して「どうせみんな死んじゃうんでしょう?」と大人を困らせる。熱狂する一方で、本気にはなっていない。ノストラダムスの子どもへの影響を心配する大人たちをバカにさえしていた。子どもは大人の社会を、みんな見透かしているのだ。

80年代の自分も、70年代の子どもたちに共感する。彼らの様子に、子どもってそうだよなと、すごく笑った。多くの大人が、オカルトときいて嘲笑したり、眉をひそめたりする原因のひとつは、そんな生意気な子供っぽさのせいかもしれない。社会の一員である大人は、自分たちの世界のホンネと建前を揺るがす存在に敏感に反応するということなのだろう。大人になってからオカルトを語ると、考え方についた贅肉が邪魔して、いろんなことと絡めて、どうにも高尚なことをいいたくなる。だけど、いつのまにか忘れてしまっている子どもの正直な視点というのは、オカルトを考えるときの道具になりそうだ。

信じる人信じない人

テレビの心霊番組は見逃さず、UMAが載ってる本を読み漁る。小学生の頃の自分は、結構な不思議大好きオカルト少年だった。あるとき「ムー」という専門誌のことを耳にしたので、本屋で買ってきて興奮しながら読み始めた。「わたしの前世は10万年前の火星戦争で・・・」とかいう記事に、う、うーん、さすがにこれは…と、ついていけなくて固まってしまった。あまりの内容に、自分の中のオカルト熱がグングン下がっていくのを感じたことを覚えている。

本書では初見さんが79年に創刊されたばかりの「ムー」に触れたときのことが書かれている。目を通したものの「なんか違う」と感じて、買わなかったとか。そのとき、初見さんは少年時代のオカルトへのひとつの区切りを感じたのだという

80年代の自分と、70年代の少年が、共にオカルトに一区切りをつけるキッカケとなったのが、オカルト専門誌だったというのは面白い。

本書のUFOの章で「ニューエイジ」についても触れられている。ここにムーのことも書いてあって、読んでみて自分に当てはめて振り返ると、自分がオカルトに求めていたのは、オカルト専門誌がとりあげるような精神世界ではなく、ドキドキワクワクだったんだなあ、と思う。

80年代以降の、自分の雑感を言えば、オカルトは「信じる人」と「信じない人」に二極化しているように思う。信じる人はどんどんノメり込んでるし、信じない人は「オマエ、そんなの信じてるの?」とバカにしてくる。両極端な対立は、あまりいい結果を生んでいるとは言えない。オカルトはなくならない。今後も形や言葉を変えて世の中に存在していく。バカにするでもなく、信じ込むのでもなく、適切なオカルトとの距離の取り方はないものか。本書が語る70年代のオカルトブームは、考え方のヒントになってくれる。

外出がメンドクサイという事と義体化と●●な生活

外出ができるようになってきた

 

外に出るのがメンドクサイ性格である。良く言えばインドア派。休みの日は本を読んだりゲームをしたりするのが最高の楽しみ。プロ野球を観ながら「しっかりしろよ」と、寝っ転がってる自分を棚にあげて汗をかいて頑張ってる選手に口に出す。そんな時間でフルに土日を過ごすことがほとんどだった。でも、ここ数年は変化してる。土曜だけでも映画を観たり、どこかへ出かけるようになった。なぜか?それはテクノロジノーの進化のおかげというしかない。

技術の手助けによる華麗な休日

 

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映画を観にいくときの休日を追いかけてみる。まずは映画館の座席予約だ。ネットから劇場のページへアクセスして、自分が観たい時間の、空いてる見やすい座席を購入する。当たり前になってるシステムだけど、なかった頃は上映時間を確認するには劇場までいくか、新聞で確認するしかない。行例にならんで窓口でチケット購入しても、自由席だからいい席は早い者勝ち。最悪は立ち見だ。そんな不便や不安がなくなったんだから、ずいぶんと便利になったものだ。

チケットを購入したら劇場へ車で出発。しかしどうにも自分は道を覚えるのが苦手である。地図をみても頭の中で順序だてることがうまくできない。というか、上りとか下りとか何を基準にして?標識の「直進●●市方面」とか方面てなんだよ、アバウトすぎるだろ!なんていう疑問で脳がいっぱいになって、うまく処理できない。そんでもって標識を見たり、どこで曲がるんだろう、とか頭の中で考えてたら、ただでさえ不安がある車の運転がさらに危険になってビクビクもんである。しかし、そんな自分でも大丈夫。今の車にはGPSナビがある!ナビ様が左いけ右いけ直進だとおっしゃるがままに運転すれば、目的地まで着くんだから楽ちんだ。ただし、ナビ様の指示どおりに運転しても三車線の車線変更はヒヤヒヤもんであることに変わりはない。

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劇場へ着いてもまだ安心できない。車を駐車するという最大の難関が待っている。駐車が苦手!周りの車にぶつけないかドキドキすることになる。実際、会社の駐車場で他人の車に当てたことがあるし笑えない。とくにバックでの駐車が苦手。じゃあ前から突っ込めばいいんだけど、それだと後ろの駐車スペースに車がきたとき、バックで出なきゃいかんので余計に難易度が上がる。「ああバックで出るのどうしよう」とか考えると映画楽しめないので、帰るときは前進で出れるよう、やっぱりバックで停めておきたい。

しかしこれも今は後方をモニタに映すバックカメラがある。ミラーだとわかりにくい距離感も、カメラ越しの映像ならスイスイで画面上のラインを駐車スペースの車間ごとの区切りと合わせて停めればいいだけ。もしものときは、前後のセンサーで他の車と当たりそうになると、ピー!と警告音がなる。ハイテク機器に守られて安心。実は前の車を買ったとき、ディーラーの営業マンから「バックカメラつけます?運転に自信がないというんでなれば、別に無理してつける必要ないですよ」と言われて、「そうっすねーいらないっすねー」と見栄を張って付けなかった過去がある。10年たって新車を買うとき、バックカメラの必要性が身にしみていたので、絶対必須で取り付けた。安心は金で買えるということを学んだのだ。

劇場へ入る。これも地図情報サイトのgooglemapなどで、その場所へ行った人の写真などが上げられているので、どんな感じかイメージができているので助かる。写真なんか見ないでその場所にいってドキドキを楽しみたい、という人も多いと思うが、自分はそんなドキドキよりも安心が欲しい。地図情報サイトの写真はありがたい。

映画を観たあとは、ファーストフードなんか食べちゃう。これもスマホでメニュー確認して、専用アプリから注文してレジで受け取るだけで簡単。最近、よくファーストフード食べるようになったけど、実は入るのが苦手だった。だってレジで注文するときって、メニューゆっくりみれないし、ちょっと迷っただけで、後ろにならんでいる人の「早くしろよ」という無言の圧を感じてしまう。いざ注文しようとしても、あれとこれがセットになるとか、これはSサイズまでとか、お店ルールを把握してないとパニくることもしばしば。だからよっぽど空いてるときしかいかなかった。でも今はスマホのおかげでゆっくり選んで、ノープレッシャーで注文できる。ポテトうまうま。

というわけで、人混み苦手、車の運転がヘタ、列へ並ぶこと恐怖症、などなど数々の社会生活能力不足の自分が休日に映画を楽しめてるのは、もうこれテクノロジーの手助け以外のナニモノでもない。テクノロジーが外出させてくれている。ゴロ寝サイコー!だった自分に違う生活を提供してくれたのだ。

 

理想の自分に近づくということ

80年代の家庭用パーソナルコンピュータの広告は、可能性の言葉の羅列だった。「ワープロで文書も書ける!絵が描ける!コンピュータで作曲もできる!」なんていう言葉が踊っていたものだ。これってつまりは「あなたのなかに隠れている理想の自分になることができる」ということだったと思う。

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文書を書くには辞書で漢字や言葉を調べなければいけない。絵を描くには道具をそろえたり、下地となるデッサン能力が必要だ。音楽をつくるには音符がよめなかったら厳しい。でもそういった基本的なことはコンピュータがなんとか手助けしてくれて、隠れていた自分の才能が出てくるのでは?という期待があった。仕事の道具となってしまったパソコンは人気がなくなってしまったけど、iPadなどが人気なのは「あなたの隠れた才能」が花開く気分になるからだろう。でも実際さわってみると、そう簡単にはいかないんだけどねー。実際にコンピュータが手助けしてくれて、今まで気づかなかった意外な才能が出てくることはあるし、高度な技術を利用できることは間違いない。だけど、やっぱりクリエイティブなことしようとすると、持ってる素養や、地道な努力が必要だと気づかされるのだけど。

クリエイティブな面で万人がテクノロジーの理想のサポートを受けられるとは限らない。でもやっぱりサポートを受けて人は変わってるのかもしれない。外出めんどくさいよインドア派だよ、と言っていた自分が映画のために毎週外出するようになったというのは、好きなことをするためのわずらわしいことをテクノロジーが取り除いてくれたからだ。かつてパーソナルコンピュータの広告にあったような「隠れている理想の自分になることができる」という夢は実は気がつかないうちに実現していて恩恵を受けていた。当たり前になりすぎて、気がついてないようなことも含めて。

今までできなかったことができる。自分が拡張されていく気持ちよさ。話は一気に飛躍するけど、これって「義体化」への心の準備かもしれない。

 

義体化」への心の準備

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アニメ、マンガのシリーズ作品「攻殻機動隊」には「義体」とよばれる機械を埋め込まれ、サイボーグ化した人間が登場する。腕を強力なパワーを持つ義手に変えてみたり、目にカメラを取り付けて普通ではみえないものをみようとしたり、脳に直接ネットワークとアクセスするインターフェイスをとりつけたり、自らの体を改造するのが当たり前の世界だ。初めてこの作品を90年代にみたときは、体をそこまでいじくるなんて気持ち悪いなー、まあ遠い未来は感覚が違うのか、と思っていたけど、今現在だとすごくわかる気がする。自分がテクノロジーによって変わったように、自分が拡張されてパワーアップするのって気持ちがいいのだ。

さすがに世の中の大半の人も体をいじるのは抵抗があるだろう。でも生活や心がテクノロジーのサポートを受けることにはもう慣れきってしまってる。「義体化」することの心の準備はもうスタートしていていて、「体をいじる?それやってみたい」になるのは、わりと近い未来のような気がする。とはいっても機械的なハードの進歩、心の変化のスピードを考えると30年後くらいからなあ。それでもわりと近いと思うけど。まあ自分が生きてるうちに腕の一本くらいは変えることになりそうだ。

「エージェント・オブ・シールド」をオススメ!

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「エージェント・オブ・シールド」をオススメ!

自分が最近ハマってるドラマをオススメ。今回はマーベルのドラマ「エージェント・オブ・シールド」!記事ではマーベルの映画シリーズであるマーベル・シネマティックユニバース(以下MCU)のネタバレが含まれるのでご注意を。といいますか、自分はこのドラマをまだS2までしかみていないので、逆にコメントなどでS3以降のネタバレはご容赦ください。人には厳しく自分に甘い。

MCUとのつながりは?

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MCUにも登場する国際平和維持組織「S.H.I.E.L.D.」の活躍を描くスピンオフのドラマ。主役はエージェントであるフィル・コールソン。あれ?映画「アベンジャーズ(12年)」で彼は倒されたはずじゃ・・・と思ったアナタ、そのとおりなんです。が、しかしこのドラマでは復活している。ご都合主義ではない。生還の謎、なぜ自分が生き返ったか?というコールソンの苦悩がドラマの核のひとつとなっていく。

「エンドゲーム(19年)」でアイアンマンことトニー・スタークを失うことになったけど、このコールソンの方法を使えば復活できるのでは?もしかしてもしかしての復活あったりして!?なんていう妄想するのも楽しい

MCUでS.H.I.E.L.D.は壊滅的ダメージを受けるが、このドラマでは内部で何が起こっていたか描かれる。他にもマイティ・ソーに登場したレディ・シフが現れるエピソード、ヴィブラニウムを巡る陰謀、などなどMCUファンなら嬉しくなる要素がたくさんある。

しかし!期待させるようなこと書いてはいるが、このドラマ、はっきりいってMCUと切り離して考えた方がいい。自分も最初はMCUの番外編的な要素を楽しみで観てたんだけど、大人の事情の路線変更があったのか、だんだんMCUとの接点も薄くなっていく。しかし!だがしかし!このドラマは面白いんですよ!MCUとかどうでもよくなりました。MCUとか期待せず、このドラマ是非観て欲しい。

でもこのドラマ、ほんとにMCUから独立してしまったのかは謎。だって「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム(19年)」でラストにニック・フューリーがいた場所って、あれはやっぱり…とか考えてしまうけれど。

スパイアクションだ!

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MCUとのつながりはおいといて本作の魅力に触れよう。フィル・コールソンがリーダーに抜擢されたチームの活躍を描く物語。S.H.I.E.L.D.の使命は、国を超えた脅威から人類を守ること。超常現象、怪事件、別次元や地球外からの侵入者。そして炎を操る能力に目覚める者や、怪力を持て余すようになった男、などなど特殊能力を持つ人間との接触である。彼らはヒーローとして協力者にもなり得るが、ヴィランとして危険な存在にもなる可能性も拭えない。

事件や特殊能力を持った人間に対抗するコールソンのチームは、特別な能力を持ったスーパーヒーローではない。訓練を受けたエージェントとはいえ、人間である。ゆえに彼らは協力し、自分たちの持つ特徴、能力を結集させて対抗する。チームとしてメンバーが織りなすドラマが本作の最大のポイントだ。スパイドラマであるからには、潜入やガンアクション、そして最先端の技術を生かした秘密兵器!などといった007ばりの展開も、存分に楽しめる。だけど重要なのはチームのメンバーのキャラクターの熱いつながりなのだ!

これがチーム・コールソンだ!

ここからはメンバー紹介もかねていく。動く前にやらなきゃいけないのは情報収集。担当するのは、どんなコンピュータにも侵入出来る腕前を持つスーパー・ハッカーの才女・スカイ(後に名前が変わる。これはまあ、みてのお楽しみ)。

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もとはS.H.I.E.L.D.のメンバーではなかったが、ある事件をきっかけに、コールソンのスカウトによってチームに加入する。エージェントとしては正規の教育を受けていないこともあり、作戦よりも目の前の人を助けようとして非情な組織のあり方に疑問を持つこともしばしば。彼女の若さがチーム全体に影響を与え、彼女自身の成長もドラマのポイントだ。演じるクロエ・ベネットがキュート!お父さんが中国系の人だそうで、なんとなくアジア系の我々でも親しみがわくようなルックス…のような気がする。それにしても最近の映画やドラマってなんでもコンピュータでなんでも情報が手に入ったり操作できちゃうから、誰がどこにいるのか、何があそこにあるとか、すぐにわかるので話が早く進みすぎて大変である。それだと話が成り立たない場合があるので、逆にコンピュータに侵入できない理由をつくるために四苦八苦してるよね。

未知の生命、有史以前の機械。集めてきた手がかりを研究室で分析するのはフィッツシモンズの科学者男女コンビ。

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●●エネルギーだのXX鉱石じゃないか?とか、現実からちょっとだけ浮いてるウソとホントがうまい具合にまざりあったSFな感じがよい。興味で周りが見えないくらい夢中になってる二人の雰囲気だけで楽しい。そして早口で自分の見解を速射砲のようにまくしたてる共鳴している感じに萌えちゃう。細胞やら生物に強い女性のキュートなシモンズ。そしてメカが得意分野のフィッツが創り出す秘密兵器にも注目だ。道具からくるワクワクのスパイドラマの面白さを創り出すコンビである。恋人なのか親友なのか?どうなっていくのかなあ。これもドラマの楽しみだ。

非情な組織なんである

スカイとフィッツ’シモンズは、いわば現場のバックアップである。最前線で任務にあたるエージェントもいる。

まずメリンダというキャリアある女性。

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しばらく現場を離れていたが、コールソンのお目付役としてチームに参加。サブリーダー的存在で、コールソンが意見を求める相手だ。彼女はチームの拠点となるジェット機の操縦も担当。フィッツ&シモンズの研究室、作戦会議室、尋問ルームなど、チームのオフィスはこのジェット機の中にある。チームは専用ジェットで常に移動していて、世界中の事件に対処するのだ。空飛ぶ秘密基地!なんてイカす設定なのか。実際、ドラマでも世界中が舞台となっていてスケールがでかい。それなりに映像は力入ってます。一回沖縄が出てきたけど、まあ…なんとか日本人にとってギリギリ許容範囲だったかな。

メリンダは銃撃戦はもちろん、接近戦の格闘でも強い!演じるこちらもアジア系のミン・ナ・ウエンのアクションに大注目!

そしてチームのエースであるウォード。

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戦闘、機械操作、潜入時の演技力。どれをとってもトップクラスの実力。ルックスもシュッとしてるけど、見た目通り?非情な命令にも従う生粋の敏腕エージェントである。エージェントとして教育を受け、百戦錬磨の”戦士”であるメリンダとウォードは、現場を知らないバックアップ組と対立することもしばしば。彼らの甘さにいらだつウォードと、厳しさをみせながらもチームメンバー全員に寄り添うメリンダ。チームの人間ドラマも面白い。

ドラマは進む。自分もその先は知らない

スカイには出生の秘密があるらしく、コールソンは自分がなぜ復活したかの理由、身体の変化に悩んでいる。メリンダは一人になると、どこかの誰かとコソコソ連絡をとっている。どうやらチームを監視しているらしい…エピソードごとの事件もありながら、ドラマ全体を通しての物語もスリリングだ。

さらにはS2からは夫婦でチームに加わるバーバラとハンター、大男でメカニックのマックなどさらに多彩なエージェントも加わってくる。

だけどね、ここまぜ散々スパイモノとして楽しい!って書いてきたのに、S3からはちょっと作品の方向性が変化してきてる部分もある・・この先どうなるかは是非これを読んでる人が確かめて欲しい。自分も知らないし、これからどうなるか楽しみだ。シリーズはS7まで132話もある。配信サービスの料金の元を取るには充分の作品だ。いやー時間が無限にあればいいのにね。でも毎日一話ずつでも結構観れるから気長に楽しんでいこう。SFスパイアクションの本作はオススメ!

 

ブログ引っ越し中・・・過去記事を転載(17/06/30)今こそ野球を語れよ、言葉でな!

過去記事から転載(17/06/30)

 

野球のこととか書いてたよねー

 

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@12球団の選手名、昔はホントに全部覚えてたのだ

おっさんになるとイヤらしく損得で動いてしまうものだが、若者は意味のないものに情熱を傾けてしまうことがある。自分の場合は小学生や中学生の頃、84年から85年あたりのプロ野球選手の名前と顔を全員記憶していたことがある。当時1球団60人制だったから、12球団で720人。ほんとに野球が好きで、毎日のように選手名鑑をパラパラめくりながら野球中継をみてたら、自然と頭に入ってしまったのだ。今思えばそんなことより英単語でも覚えればよかった、と真剣に後悔しているのだが・・・若さゆえの無駄である。

 

しかし、あの頃の野球にはそれだけの魅力があったこともまた事実である。ホームランしか狙わないフルスイングの門田、孤高の打撃職人である落合、スーパースター原辰徳、元気印の中畑清マサカリ投法村田兆治などなど・・・とにかく選手が個性的だった。

 

「ああ、おっさんの昔はよかった話か」ここまで読んだ今の若い人はそう思うかもしれない。いけないいけない、オレも昔自慢する大人になっちまったなあ・・・なんて反省はしない!若者よ、はっきりと言ってやる「昔の選手のほうが個性的だったし、面白かった」ほんとにそう思う。あ、やっぱりごめん。若者のみなさん、どこか行かないで・・・まあ、最後まで読んで欲しい。

 

@個性がない選手が「いい選手」の時代

ではなぜ個性がなくなってしまったのか。それは「いい選手」の定義が変わってしまったからである。「セイバーメトリクス」という考えが日本でもこの10年かなり浸透してきた。野球ファンにとっては、MLBのアスレチックスがセイバーメトリクスを選手編成に取り入れた効果で優勝し、その記録である書籍「マネーボール」がベストセラーになったことを覚えているだろう。セイバーメトリクスという言葉は、いろんな意味合いで使われたりするの注意が必要だけど、簡単に言うと「先入観にとらわれず、数値による統計データだけで野球のプレイを判断する」という考え方だ。

 

ちょっとこのあたり説明しだすと長くなりすぎるので、要点だけ抑えておこう。ほんとにざっくりなので、詳しい人は、こまけーツッコミはなしでお願いしたい。

 

たとえばホームラン40本打つけど、三振が多く守備がド下手な選手がいるとする。イメージだけで言うとホームラン40本打つという派手な方に注目がいってマイナス面にはあまり気にしない。しかしセイバーメトリクスという観点でその選手の試合に対する貢献度を数値化してみると、ホームラン40本打つことのメリットより、三振が多く守備がヘタだというデメリットがうわまっているのがデータでわかるようになってきたのだ。

 

つまりは現在のプロ野球において、「いい選手」とはプラス面以上のマイナス要素がない「欠点のない選手」である。バッティングは3割打つけど守備がヘタ。守備がめっちゃうまいけど打率が1割台とかいう一芸に秀でた「個性的な選手」はいらない。それよりも打率も長打もそこそこで、出塁率が高く、きちんと守ることができ、脚も遅くない、肩も弱くない。そんな全能力で欠点のない、マイナス要素が少ない選手を揃えるほうが野球では勝利につながる。統計データ上の分析だとそうなるらしい。いい選手かどうかを見極めるのに、昔の感性を頼りにしていた時代から、現在はよくも悪くも野球は「データと統計」の時代になったのだ。

 

「平均的な選手ばかりで個性がない。だから今の野球はつまらない」と、単純に言うつもりはない。レベルは上がっているのだろうし、現在の野球も観ていて楽しい。そこは否定しない。じゃあ何が面白くなくなったのかというと、選手の問題じゃない。選手が平均化するのはヨシとしても、その選手を語るファンの方に問題があると思う。

 

 

@数値評価全ての時代

ファン同士が野球の話をする場として、今はネット上で交流することが多い。なんかこう書くと問題ありそうだけど、リアルで野球の話することって少なくなった。野球の話を振っても「そもそも興味ないんで」と冷ややかな視線が返ってくることが多い。それぐらいならまだいいけど、「野球ですかぁ?はぁ?」みたいなケンカなら勝ってやるよ?と言わんばかりの人もいて困ったもんである。野球がこの国の国民的娯楽だったのは、とうの昔の話になってしまった・・

 

ちょっと話が横にそれた。ともかく深く野球の話をしたいと言う人はネットで議論をしている。最近は見てないけど、自分も2chねる全盛の頃にはめちゃめちゃ書き込んでいたのだ。ここだけの話だけど。

 

さて、このネット上の議論ていうのは、みんなでわいわいきゃっきゃっうふふでやっているときはいい。しかし、「どの選手が一番なのか?」のような、比較になると荒れ出して収拾がつかなくなる。そんなときにみんなが納得出来るのは何かというと、数値やデータなんである。別にネット上の野球の議論に限らず、今は世の中すべてそうなんだけど、データっていうのは考え方がちがう人達が理解しあえる共通言語となっている。

 

客観的判断ができる数値で語るのは別に問題ではない。しかし、そこで議論が終わってしまうのはつまらない。たとえば、プロ野球最速のボールを投げたのは誰か?大谷のMAXがスピードガン計測で160km/h、江川が150km/h。大谷のほうが打ちにくい。終了!とか言い出す人がいる。

 

「いやいやスピードガンに現れない打ちにくさとかあるんじゃないの?」「でも江川のほうが早く感じるけどなあ」とか言い出すと、なんか頭悪いと言われかねない。参考要素のひとつとしての数値ではなくて、数値が絶対になりすぎていて、あらがえない空気があるのは残念なところだ。これがネットだけの現象かというと、ネット上だけでなく雑誌や書籍でもそういった傾向は出てきている。世の中全般の空気として広まっているようだ。まあ、そういった本を買うのは、ネット上で議論している野球ファンなんだから、正しくニーズが反映されていたら当たり前か。

 

@今こそ言葉で語れよ野球文学青年

つまりは選手の能力もデータで表され、アベレージ型の選手が評価される時代。そしてファンもデータで野球を語る時代である。

 

だからといってプロ野球から魅力がなくなったとは言わないけど、ちょっと面白くなくなってきてるのではないか。繰り返すが、これは選手の問題ではない。アベレージ型の選手全盛の時代なら、それはそれで面白いのだ。問題はファンの「語り」が面白くなくなってきてるように思う。あまりにもデータだけで語りすぎていないか。数値やデータは誰もが納得できる指標だ。だけどそれは裏を返せば、全てのことがひとつの価値観だけに統一されてしまうということである。それって何というか面白くない。ていうかロマンがない。

 

20年後、「イチローってどんな選手だったの?」って聞かれて「OPSがXXX以上だったんだよ」ってちょっと味気ない。時間がたったとき、お気に入りの選手を数値「だけ」で語るのってつならない。間違いなんてあっていいと思う、どっちが上とか下とかいう結論も必要ない。喧々ガクガクの議論が、言葉の応酬が面白いんじゃないか。

 

もう一度言うけど、数値で語るのも悪くない。しかし、もっと言葉で野球を語ってもいいんじゃないか。ありったけの自分の言葉で好きな野球選手を語ろう。このデータ全盛の時代だからこそ、数値の中に選手が埋もれてしまわぬよう、プロ野球ファンは言葉を尽くすべきではないか。

 

数値って納得はできる。でも心を震わすのは言葉なのだ。このふたつのバランスが大事。ほら、野球だって投打が噛み合わないと勝てないからね。