日記とは自分の中にある
ここ1年くらい「ホンネの日記」を書いている。
ネットでブログとして個人的な日記のようなものを公開するとなると、やっぱり多少はかっこつけたり、話盛ったりしてる。いや全くなかったことを書いてはいないけど、ちょっと話面白くしちゃうことが、ないとはいえない。面白くする、っていうと嘘ついてるみたいだけど、仕事で本気で怒ってることをストレートに書いて、ドス黒い心の内をお見せするのもなんだし、そこを笑えるように反転した視点で書いたりとかね。そうすることで、自分自身の考え方を柔らかくできるし、気づきもある。それはそれでアリだと思ってるのだけど。
でもそうしてるうちに、どれだけ書いてもホントの自分が書けてないんじゃないか?とか考え出しちゃった。ブログとしてネットに上げるから面白いものを書こう、となるわけで、じゃあ誰にも見せないことを前提にすればいいんじゃないかと、PCのテキストファイルとして日記を書き始めた。ここには自分のホンネとホントにあったことだけを1年くらい書くのを続けている。
そうして書いたモノを読み直したんだけど・・・これが自分かあ?という気持ち。うれしいことがあったときは恥ずかしくなるほど喜んでるし、逆に怒ったときの心の病み具合が半端ない。ネットのブログと違って、誰もみる人がいないってことは歯止めがきかないってことである。だからどんどん浮いたり沈んだりしたる。「仕事辞めたい」ってずっと書いてるし、笑えない。
これが自分なんだろうけど、そうは認めたくない。いや少なくともそう認めたくない。こうしたいなーと考えたりする。
ハタと気がついたのだけど、これが日記というものかもしれない。かっこつけたブログでも、病に落ちたような誰にもみせないテキストでも、ホントの自分を100%さらけ出すことなんてできない。いや時がたてば「これは違う。自分はこんなやつじゃない」と言いたくなるものなのだ。だから日記とはあの頃の自分への視点であって、読み返すことによって起こる自分の心の反応によって、役割が完成する。というのがあるべき姿じゃないか。そこに真実が全て書いてあるかなんてことは問題じゃなく、あのとき、自分はこんなことを書かずにはいられなかったのかと思い至ること。ならば今これからは、と考えるために記すのかもしれない。
よく著名人の日記とかで心情を考察するとかあるけれど、あれも第三者がとやかくいうのどうなんだろうねえ。日記に書いてあることを真に受けすぎない方がいいと思うけど。やっぱり日記って、書いた人本人のためだけにあるのだ。